名簿作成のスタートはこのガリ版刷りからでした。
昭和31年からです。
千葉市が区政になり、住居表示が変わり、以前の住所では宛先不明となりました。
同窓会報誌の届かない仲間がいらっしゃいましたら、是非登録を!

同窓会千葉市支部の大海さんのお力をお借りしながら、春日先輩、千葉先輩方がOBOGのホームページを作っていただきました。
つきましては、アルバムやテープ等の音源、ビデオ等をお持ちでしたら、是非公開させてください。
この写真は千工吹奏楽部で検索したら出てきた写真で、撮影者等は不明です。
最後の最後の昭和41年、多分定期演奏会の少し前でしょうか?
部室の内部写真です、奥が楽器置き場です。
生実校舎移転間もない頃、部室は、校舎反対側の送電鉄塔の下にあり、玄関から校舎を大きく回っての移動で、ぐちゃぐちゃか埃だらけかになりながらの移動です。
また玄関前までの坂道は舗装されていませんでした。 バス等が走った後は、ものすごい埃です。 この写真は、芝刈り教頭?!(米田教頭)を中心として、整備委員会では毎週芝を植えていた当時の写真です。
写真の前の砂利道は、校舎への坂道、後ろの校舎は、ホームルーム棟。 芝植えの後は、水やりと芝刈り、管理が大変でした。
津田沼からの引っ越しは、実習時間等を使って、機械や実験機材を生徒たちが運び出し、 毎日怪我もなくできたのが不思議です。
教職員や生徒が一緒に作業をして、一体となり纏まっていました。

千葉テレビ放送で放映された1コマです。 前年に、定期演奏会の広告を取りに千葉テレに行ったときに、企画されたそうです。 部員の皆さん、橋本さん、田中さんたちのご尽力です。 千工、千葉商、市習志野、印旛(当時)ほか?が、1月の毎週日曜日に放送されていました。 動画としては、千工のみ残して公開しております。 当時新妻先生は、印旛高校の教え子と結婚されたそうです。 当時の部員たちで、江利チエミさんの「新妻に捧げる唄」でお祝いしていました。

一昨年夏、数十年ぶりに母校野球部の応援のため天台(県総合スポーツセンター)球場に行きました。
卒業後は毎年のように応援に行っていましたが本当に久しぶりでした。
興味は野球の応援もさることながら我がブラバンの演奏を楽しみに応援団席近くに陣取りました。
が、ブラスバンドは現れなかったのです。
部員数が少なくなっているというように聞いてはいましたが、ここ数年(当時)の新聞記事では少数クラスBでの入賞が続いていたということもあったので、この様なことになっているという現実にはただただショックでした。
その後、母校に行く機会があり、それとなく確認すると休部状態にあるとのことでした。
そんな矢先、所属する南総支部の先輩が地元の方たちと、残すべき資料をもとにアーカーブスを立ち上げ、その実績を「記憶は薄れるが記録は残る」として支部会報に投稿されました。
これをヒントに、昭和27年の創部後70有余年の歴史を刻んできた吹奏楽部の有形無形の記録を残していく必要があると考え、令和7年3月発行の同窓会報に「千工吹の足跡」として投稿し、吹奏楽部OBに呼びかけました。
反応はすぐに表れ定期演奏会プログラムや音源、写真など大量の資料が届けられました。
現在では昭和37年(第5回)から平成4年(第34回)まで29年間の定期演奏会プログラムが勢ぞろいしています。(昭和61年 スキップ)
このプログラムに記載されていた出演者情報により、吹奏楽部OBの名簿人数は400人を越えました。
また、提供いただいた写真により、懐かしい部室内外の様子や練習風景、水島先生や石渡先生のリアルな写真が入手できました。
令和5年以降については情報が集まりづらく現状は苦戦していますが、これからも地道に情報収集を続けたいと思っています。